金鵄(きんし)伝説

金鵄(きんし)伝説って・・

《神武天皇聖跡 鵄邑顕彰碑》

金鵄(きんし)とは、初代・神武天皇が宿敵・長脛彦(ながすねひこ)と戦ってピンチに陥ったとき、 天空から舞い降りてきて、弓矢の先に止まった金色に輝く鵄(とび)のことです。
敵軍は金鵄の光に幻惑されてしまい、これが勝機となって神武天皇は戦に勝つことができました。

伝承によると、金鵄の舞い降りてきた場所は、現在の富雄川上流付近にある、鵄山(とびやま)付近。

写真は、やや下流の出垣内(でがいと)付近にある、皇紀2600年を記念して建立された記念碑です。 記念碑には、金鵄伝説の簡単な説明と共に、金鵄が舞い降りた村を鵄邑(とびのむら)と名づけたと刻まれております。

《日本の国旗》

赤い丸は太陽(天照大神)、日の丸を掲揚する為の旗竿(はたざお)の先にある金玉(きんぎょく)は金鵄、 柄の部分の白黒のストライプは八咫烏(やたがらす)を象徴しています。

「記紀」(古事記・日本書紀)からの概略

カムヤマトイワレビコ(後の神武天皇)がに九州の日向を出発し、大和の地を平定するまでの戦いの事。

現在の東大阪付近に上陸し長脛彦の軍勢と戦うも内陸への進行を阻止される。
カムヤマトイワレビコの兄は、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。
廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言って、南の方へ回り込むことになる。


紀伊半島に沿って南下し、熊野村(和歌山県新宮市)付近で上陸し大和に向かう。
タカミムスビの命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から大和の宇陀に至る。

長脛彦はカムヤマトイワレビコの元に使いを送り、自らが祀る櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)は昔、
天磐船に乗って天降ったのであり、天津神が二人もいるのはおかしい、あなたは偽物だと指摘。
カムヤマトイワレビコと長脛彦は共に天津神の御子の印を見せ合い、どちらも本物とわかっが、戦いを止めなかった。

戦いの最中、金色の鵄(とび)がカムヤマトイワレビコの弓の先(ハズ)にとまり、黄金に輝き、長脛彦の軍は眩惑されて戦闘不能になった。

その後、大和の豪族を服従させ、カムヤマトイワレビコは畝傍(橿原)の地で即位し、初代天皇・神武天皇となられた。
《戦前の学校教育》
「外国勢力と結託し神武天皇の日本統一に反抗した“逆賊の頭目”である。」
と、戦前は教えられていました。

《東日本流外三郡誌》(偽書との説も・・)によると
全国10以上の部族を統一した「邪馬台国」の王が、安日彦(あびひこ)と長脛彦(ながすねひこ)との記載もあります。

諸説ありますが、長脛彦は、天磐船に乗って降臨した櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)を祀り大和を治めていたようです。
地元、130年以上もの伝統のある富雄北小学校の校章は輝く金色の鵄(とび)がモチーフになっています。
一見、鶴が羽ばたく図なのですが・・金鵄伝説由来の校章です。

黄金のトビって・・

あくまでも伝説です。

様々な文献に記載もございますが、常識では考えられないような内容も多数ございます。あらかじめご了承くださいませ。

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